いろいろ不満が募っているわけだ。
家内の実家の奥底に眠る40年物のクラシックなクラシックギターを借用したお話は、以前もしたが、そのギターにまつわるお話。
まず、借りてきた当初、錆び錆びのスティール弦が張られていたため、ギターについて何も知らないぼくは、迷わずフォークギター用のスティール弦を購入し、 弦を張り替えた。いろいろ調べていくうちに、どうやら、借用したギターはクラシックギターだということがわかり、ナイロン弦に張り替えた。
そこで問題が発生。錆び錆びの弦を張り替えた時、5弦のペグのヘリカルギアがナメっていることに気づいたが、お構い無しに、張り替え作業を行っていた。ナ イロン弦に張り替えたとき、5弦のペグが回らなくなった。ヘリカルギアには、ネジがついていて、このネジを締めることでなんとか弦を張ることができた。ギ アの半分がナメっているので、噛合う半分の領域をうまくつかってチューニングすることもできた。これで、なんとか、5弦のチューニングは完了なのだが、お そらく、もう二度とチューニングできない状態と言えよう。会社でギターに造詣の深い人々に聞くと、「クラシックギターにスティール弦を張るとペグが壊れ る」と言っていたので、スティール弦を張ったまま40年近く熟成を重ていれば、それはギアもおかしくなるだろう。
閑話休題、ペグを買換ればいいのだ。早速、近所の楽器屋へ行き、ヘリカルギアだけを購入しようと思ったが、ペグをすべて交換しなくてはいけないらしい。と いうか、ギアというパーツが売っているわけではないのだ。ペグのシステムすべて、しかも両側を購入しなくてはいけないらしい。はぁ、これは結構な出費にな るのではないだろうかと思ったら、1500円くらいで売っていた。しかし、ここで店員のおばちゃんが一言。
「クラシックギターのペグは、35.0ミリのタイプと32.5ミリのタイプがあるから、どっち??」
早速、家に戻ってノギスで計ってみると、35ミリ以下のピッチだったので、おそらく、32.5ミリのタイプなのだろう。
「計ってみたら32.5ミリでした。ありますか??」
「え!?32.5!!あんたぁ、そりゃあかなぁり古いギターだよぉ。20、いやぁ30年くらい前のやつじゃない?」
「貰い物なんで、よくわかんないんですけど、在庫ないんですか?」
「めったにないからねぇ、32.5ってのは。最近のは、ほとんど35だから」
ぼくの勤める会社は渋谷にあるので、渋谷の楽器屋をいろいろ漁ればあるかもしれない。が、楽器屋を5、6軒まわったが、32.5ミリのペグなんて見当らない。こりゃもう注文するしかないだろう。
しかし、このギター。スティール弦とナイロン弦、さらにペグまで購入して、それだけでも、4、5千円くらいの出費になってしまう。なんでぼくはこのギター にここまでお金を注がなくてはいけないのか、と思っているのだが、なんとなく「乗り掛った舟」って感じになってきている。新しいのを購入するのは、うちの 家内の許しが出ていないし、無理だろう。そもそもボサノバをやりたいと思っているぼくには、クラシックギターはおあつらえ向きだ。
最近、気づいたのだが、このギター、ネックが少し反っていて、弾いているとフレットに弦が触れるらしくて、ビビり音が出てくる。まぁ、初心者が指のポジ ション覚えるための練習用と割りきってる分には、申し分のないギターなのだが、弾いてるうちに、そのビビり音が気になってくる。気になる度に、「まぁ、練 習用だから・・・」と思うようにしてるのだが、気になるものは、やはり気になる。
会社から帰って、練習するとなると、夜中になるわけで、ちょっとでも大きな音を出すと、家内が、うるさい!と怒鳴りつける。
というわけで、一刻も早く新しいギター、しかもサイレントギターがほしいのだが、わが家の財務を司る家内は、「なにか1曲弾けるようになったらね」という。まぁ、確かに、実績は必要ですからね。おっしゃる通りです。
「ぶんぶんぶん」は弾けるぞ・・・。
2005/01/29
2005/01/22
Linux Syndrome
いわゆる普通の人々は、選択肢に上がらないOSである。
そもそも、普通の人々は、OSを選ばないのではないだろうか。
つまり、「買ってきたパソコンに入っていた」という展開だろう。でも、ぼくは敢えてOSを「自由」に選んだ結果、Linuxに至った。
64ビットCPUであるとか、OSにかけるお金がなかっただとか、いろいろ状況はあったが、それでもぼくは、自分が選んだOSに心底惚れている。
いわゆる技術系の人々に比べると、そこまで詳しくLinuxの知識があるわけではないが、とりあえず、「いわゆる普通の人々」がパソコンをつかってやるよ うなこと以上のことはLinuxで十分出来るようになった。「環境が人を育てる」わけだが、たしかに、「OS環境がぼくを育てた」わけだ。
しかし、子供の頃からワープロだのパソコンに触っていると、OS環境以上に、こだわってしまう環境というのがある。それが、「日本語変換」だ。こればっか りは、使い熟れた環境じゃないと、しっくりこない。ATOK,Wnn,Canna,MS-IME,WX2,MTTK,VJE,NECAI,・・・、ざっく りこれくらいの種類は使ってみたが、最初に出会ったのがATOK6なので、このATOKのファンクション配置じゃないとしっくりこない。しっくりこないと いうのは、つまり、ファンクションや変換キーとかを押す癖とかリズムとかが関係してくると思うのだ。どのFEPでもキーバインドといってファンクションの 割り当てだとか、起動キーとかを各自カスタマイズできるので、最近はあまり意識しなくてもいいのだが、それでも、ツールパレットの見た目だとか、変換時の アンダーバーの色だとかに、微妙な違和感を感じてしまう。日本語入力の売り文句として、「学習能力」だの「変換効率」だのを出しているが、一発で変換でき るってのも気持はいいのだが、単語ごとに変換している癖があるので、学習能力も変換効率も、ぼくにとってははっきり言って必要のない機能だ。せいぜい ATOK6時代くらいの能力で十分事足りるのだ。
さて、Linuxの話に戻るが、Linuxを導入して最初に困ったのが、この「日本語入力」である。いわゆるフリーで転がっているLinuxには、 cannaという日本語変換があって、これのカタカナ変換だとか、半角切り替えだとかが、とてつもなく使いづらかった。そこで、仕方なく「Wnn」という 販売ソフトを購入してしまったのだが、これのカスタマイズがなかなか行き届いていて、ぼく好みに仕立てることができた。このWnnという名前、 「Watashino Namaeha Nakanodesu(私の名前は中野です)」が一発で変換できるように開発されたことから、その頭文字で「WNN」というらしい。ちなみに、読み方は 「うんぬ」と読むらしい。
こういったパソコン用語ってのは、独特な読み方があり、いろいろ人に伝えなきゃいけないときに、困ってしまうことが多々ある。たとえば、「ATOK」なん てのは、ぼくは「エイトック」と読んでるが、ある人は「アトック」とか言ってるし。もはやどのような呼び方だろうが、そこにこだわることにあまり意味がな いことに、最近気づいた。「TeX」なんてのは、「テックス」と読むと思っていたら、正しくは「テフ」というらしい。なんで「X」が「ふ」なんだ!? 「WYSIWYG(What You See Is What You Getの頭文字)」なんてのを「ウィシウィグ」っていうのはなんかとても無理がある。こういう理不尽な環境の中で、「何をどう読んでもいいじゃないか」と いう気になってくる。なんせ「Wnn」ってのをぼくは「うぬぬ」って読んでたし・・・。
ツカサのウィークリーマンションのCMのせいで、「.co.jp」ってのは、「てんこてんじぇーぴー」以外の読み方なんて考えられなくなってしまった。
わざわざ「ドット」なんて言ってられないでしょ?
そもそも、普通の人々は、OSを選ばないのではないだろうか。
つまり、「買ってきたパソコンに入っていた」という展開だろう。でも、ぼくは敢えてOSを「自由」に選んだ結果、Linuxに至った。
64ビットCPUであるとか、OSにかけるお金がなかっただとか、いろいろ状況はあったが、それでもぼくは、自分が選んだOSに心底惚れている。
いわゆる技術系の人々に比べると、そこまで詳しくLinuxの知識があるわけではないが、とりあえず、「いわゆる普通の人々」がパソコンをつかってやるよ うなこと以上のことはLinuxで十分出来るようになった。「環境が人を育てる」わけだが、たしかに、「OS環境がぼくを育てた」わけだ。
しかし、子供の頃からワープロだのパソコンに触っていると、OS環境以上に、こだわってしまう環境というのがある。それが、「日本語変換」だ。こればっか りは、使い熟れた環境じゃないと、しっくりこない。ATOK,Wnn,Canna,MS-IME,WX2,MTTK,VJE,NECAI,・・・、ざっく りこれくらいの種類は使ってみたが、最初に出会ったのがATOK6なので、このATOKのファンクション配置じゃないとしっくりこない。しっくりこないと いうのは、つまり、ファンクションや変換キーとかを押す癖とかリズムとかが関係してくると思うのだ。どのFEPでもキーバインドといってファンクションの 割り当てだとか、起動キーとかを各自カスタマイズできるので、最近はあまり意識しなくてもいいのだが、それでも、ツールパレットの見た目だとか、変換時の アンダーバーの色だとかに、微妙な違和感を感じてしまう。日本語入力の売り文句として、「学習能力」だの「変換効率」だのを出しているが、一発で変換でき るってのも気持はいいのだが、単語ごとに変換している癖があるので、学習能力も変換効率も、ぼくにとってははっきり言って必要のない機能だ。せいぜい ATOK6時代くらいの能力で十分事足りるのだ。
さて、Linuxの話に戻るが、Linuxを導入して最初に困ったのが、この「日本語入力」である。いわゆるフリーで転がっているLinuxには、 cannaという日本語変換があって、これのカタカナ変換だとか、半角切り替えだとかが、とてつもなく使いづらかった。そこで、仕方なく「Wnn」という 販売ソフトを購入してしまったのだが、これのカスタマイズがなかなか行き届いていて、ぼく好みに仕立てることができた。このWnnという名前、 「Watashino Namaeha Nakanodesu(私の名前は中野です)」が一発で変換できるように開発されたことから、その頭文字で「WNN」というらしい。ちなみに、読み方は 「うんぬ」と読むらしい。
こういったパソコン用語ってのは、独特な読み方があり、いろいろ人に伝えなきゃいけないときに、困ってしまうことが多々ある。たとえば、「ATOK」なん てのは、ぼくは「エイトック」と読んでるが、ある人は「アトック」とか言ってるし。もはやどのような呼び方だろうが、そこにこだわることにあまり意味がな いことに、最近気づいた。「TeX」なんてのは、「テックス」と読むと思っていたら、正しくは「テフ」というらしい。なんで「X」が「ふ」なんだ!? 「WYSIWYG(What You See Is What You Getの頭文字)」なんてのを「ウィシウィグ」っていうのはなんかとても無理がある。こういう理不尽な環境の中で、「何をどう読んでもいいじゃないか」と いう気になってくる。なんせ「Wnn」ってのをぼくは「うぬぬ」って読んでたし・・・。
ツカサのウィークリーマンションのCMのせいで、「.co.jp」ってのは、「てんこてんじぇーぴー」以外の読み方なんて考えられなくなってしまった。
わざわざ「ドット」なんて言ってられないでしょ?
2005/01/19
2005 趣味探しの旅
とはいっても、大層なことはないのだが・・・。
これから先の人生、継続してやっていける趣味というものを持たねばいけないなぁ、と思っているわけです。
はっきり言って、いま、ぼくの趣味と言えるものは、「食事&料理」。これから先の成人病世代に向けて、とても危険な趣味であると、最近実感したわけです。 年末年始の夜毎の晩餐で、ぼくの胃袋は常に満タン。こんな状態では、確実に成人病になってしまう。現在の趣味の方向性を変えていかねばいけない。運動する ことも重要だが、こればっかりはなかなかうまくいかない。生まれながらにラクするための苦労は惜しまない性格のせいだ。というわけで、興味の方向性を ちょっと変えてやれば、きっと「食事&料理」という趣味から移行できるのではないかと思ったのだった。
だからといって、ぼくの興味のないようなことを無理にやったとしても、それはそれで長続きしないだろうし、毎日の生活のリズムってのもあるわけだから、強 引にスケジュールを入れても、長続きしないだろう。休日の午後は、Jacquesの散歩に費やされることになる。少しづつ、ちまちまできるような趣味がい いだろう。家内の父親の趣味は、絵を描くことだ。趣味の範囲を大いに越えているようだが、幼少の頃から好きだったらしく、終生の直前までたしなめるすばら しい趣味であると思う。
さて、ではぼくはどうだろう。なぁんにもない。こんなんじゃ、すてきな余生を送ることができないのではないか、と最近とくに思う。唐揚げを揚げるのが得意 だからといって、それを趣味にするというのもなんか違う感じだ。読書や音楽鑑賞、映画鑑賞、ネットサーフィンだって立派な趣味といえるかもしれないが、受 け身的なものを趣味と言うのも違う感じがする。絵画にしろ、楽器にしろ、「自分が何かをする」という能動的なものが、「すてきな趣味」と思える。
ちょっと前までは、ぼくは胸を張って「料理が趣味」と言っていた。たしかに、モノ作りという点では、能動的であるし、料理を食べる立場よりも、作る立場の 方が趣味性が強い。なによりも作ったものを食べてくれて、「おいしい!」なんて言われたりするのが、案外うれしいものだ。それに、絵画や音楽などと違っ て、同じモノ作りでも、結果がすぐに出るあたりがいい。
しかし、料理を作るということは食べるということでもあり、やはりこればっかりは避けられない。作るという趣味と、食べるという趣味の両方を持ち合わせているのがいけないらしい。というわけで、料理&食事という趣味をなんとかしたいのだ。
ぼくには5つ年上の姉がいて、フォークソングが流行した頃に、姉はギターをやっていた。時折、ぼくを部屋へ呼びつけ、姉の演奏を聞かされていた。そのうち、聞かされるだけでなく、「あんたもやんなさい」になった。たしか、ぼくはそのとき小学4、5年くらいだった。
まず、姉はぼくにギターのコードを教えるのだが、その時の教え方というのが、こんな感じだ。
「こ のコードを覚えれば、あとは簡単だから、つらいかもしれないけど、これをやんなさい」といって、「F」のコードをぼくに教えた。なんか指がとても痛かった のを覚えている。覚えているのはそれだけ。痛いってだけ。指先は弦で痛いし、指の関節はツりそうになって痛いし。とにかく痛かった。それでも姉は、「ほ ら!指先が寝てる!立てて!」とスパルタな感じでぼくに教えていた。 それでぼくはギターを弾くのが嫌いになった。
ぼくはギターの音は大好きだ。ロックはもちろん、ボサノバも、フラメンコも、フォークだって嫌いじゃない。ただ、ギターを弾くのだけは姉との過去があり、遠ざかっていた。「指が痛いからもーいやだー!」と投げ出した子供の時に投げ出したまんまになっていた。
そうだ、ギターを始めよう。もう怖いおねーちゃんはいない。ぼくのペースでやればいいんだ。スパルタンな環境ではないんだ。そう考えたら、のびのびやっていけそうな気がした。早速、家内の実家の奥底に眠っているギターを引っ張りだし、弦を張り替え、チューニングもした。
目標はボサノバの「Samba de Uma Nota So」。
まぁ、死ぬまでには弾けるようになるだろう。
大凶な出来事 その1
自販機でたばこを買おうとして、千円札のしわを伸ばそうと、ぴん!と引っ張ったら、やぶれた。
これから先の人生、継続してやっていける趣味というものを持たねばいけないなぁ、と思っているわけです。
はっきり言って、いま、ぼくの趣味と言えるものは、「食事&料理」。これから先の成人病世代に向けて、とても危険な趣味であると、最近実感したわけです。 年末年始の夜毎の晩餐で、ぼくの胃袋は常に満タン。こんな状態では、確実に成人病になってしまう。現在の趣味の方向性を変えていかねばいけない。運動する ことも重要だが、こればっかりはなかなかうまくいかない。生まれながらにラクするための苦労は惜しまない性格のせいだ。というわけで、興味の方向性を ちょっと変えてやれば、きっと「食事&料理」という趣味から移行できるのではないかと思ったのだった。
だからといって、ぼくの興味のないようなことを無理にやったとしても、それはそれで長続きしないだろうし、毎日の生活のリズムってのもあるわけだから、強 引にスケジュールを入れても、長続きしないだろう。休日の午後は、Jacquesの散歩に費やされることになる。少しづつ、ちまちまできるような趣味がい いだろう。家内の父親の趣味は、絵を描くことだ。趣味の範囲を大いに越えているようだが、幼少の頃から好きだったらしく、終生の直前までたしなめるすばら しい趣味であると思う。
さて、ではぼくはどうだろう。なぁんにもない。こんなんじゃ、すてきな余生を送ることができないのではないか、と最近とくに思う。唐揚げを揚げるのが得意 だからといって、それを趣味にするというのもなんか違う感じだ。読書や音楽鑑賞、映画鑑賞、ネットサーフィンだって立派な趣味といえるかもしれないが、受 け身的なものを趣味と言うのも違う感じがする。絵画にしろ、楽器にしろ、「自分が何かをする」という能動的なものが、「すてきな趣味」と思える。
ちょっと前までは、ぼくは胸を張って「料理が趣味」と言っていた。たしかに、モノ作りという点では、能動的であるし、料理を食べる立場よりも、作る立場の 方が趣味性が強い。なによりも作ったものを食べてくれて、「おいしい!」なんて言われたりするのが、案外うれしいものだ。それに、絵画や音楽などと違っ て、同じモノ作りでも、結果がすぐに出るあたりがいい。
しかし、料理を作るということは食べるということでもあり、やはりこればっかりは避けられない。作るという趣味と、食べるという趣味の両方を持ち合わせているのがいけないらしい。というわけで、料理&食事という趣味をなんとかしたいのだ。
ぼくには5つ年上の姉がいて、フォークソングが流行した頃に、姉はギターをやっていた。時折、ぼくを部屋へ呼びつけ、姉の演奏を聞かされていた。そのうち、聞かされるだけでなく、「あんたもやんなさい」になった。たしか、ぼくはそのとき小学4、5年くらいだった。
まず、姉はぼくにギターのコードを教えるのだが、その時の教え方というのが、こんな感じだ。
「こ のコードを覚えれば、あとは簡単だから、つらいかもしれないけど、これをやんなさい」といって、「F」のコードをぼくに教えた。なんか指がとても痛かった のを覚えている。覚えているのはそれだけ。痛いってだけ。指先は弦で痛いし、指の関節はツりそうになって痛いし。とにかく痛かった。それでも姉は、「ほ ら!指先が寝てる!立てて!」とスパルタな感じでぼくに教えていた。 それでぼくはギターを弾くのが嫌いになった。
ぼくはギターの音は大好きだ。ロックはもちろん、ボサノバも、フラメンコも、フォークだって嫌いじゃない。ただ、ギターを弾くのだけは姉との過去があり、遠ざかっていた。「指が痛いからもーいやだー!」と投げ出した子供の時に投げ出したまんまになっていた。
そうだ、ギターを始めよう。もう怖いおねーちゃんはいない。ぼくのペースでやればいいんだ。スパルタンな環境ではないんだ。そう考えたら、のびのびやっていけそうな気がした。早速、家内の実家の奥底に眠っているギターを引っ張りだし、弦を張り替え、チューニングもした。
目標はボサノバの「Samba de Uma Nota So」。
まぁ、死ぬまでには弾けるようになるだろう。
大凶な出来事 その1
自販機でたばこを買おうとして、千円札のしわを伸ばそうと、ぴん!と引っ張ったら、やぶれた。
2005/01/13
遅ればせながら初もうで
結局、今年の初もうでは、1月10日になった。
毎年、鶴岡八幡宮に行くことになっている。気づいたら家内は数え年で前厄にあたるらしく、厄よけもお願いした。
成人の日なのか、かなりの人出だ。厄よけしてもらうのに2、30分は待っただろうか。
お参りも終り、破魔矢を買い、絵馬に「世界平和」と記入し、おみくじを引くことになった。
お みくじの窓口のおねいさんは流れ作業のように100円を受取り、おみくじを渡す。普通のお店と違うのは「ありがとうございました」ではなく、なんか、へん な愛想をついていた。「よいお参りでした」みたいな感じだった。ちょっと違和感があったが、さすがに「ありがとう」ではないらしい。
さて、ぼくの引いたおみくじ番号は、「40」番(んー、こういう情報をここに載せていいものかどうか)。
「大凶」
ぼくは、仏教徒である。さらに言うなら、家内との結婚式は、キリスト教だった。毎年初もうでは神社である。おそらく、死に直面したら、「おかぁちゃーん」 と言ってしまうかもしれない。決して「Oh! My God」、「Jesus!!」なんて出てこないし、「神様」や「仏様」なんて単語も出てこないだろう。
ぼくにとっての宗教観なんてのは、そんなものだ。「運」ってのはあるとおもうが、「神」は信じていない。「おばけ」は信じないが、「宇宙人」は信じている。 だから、おみくじの内容がどうかなんて、ぼくには大した問題ではないのだ。
そういえば、去年の初もうでで、ちゃんと絵馬に「世界平和」と書いたはずなのに、去年は災害につぐ災害、あげくにイラクは終息しないし、イスラエルも緊張 しているまんまだ。北朝鮮だって予断を許さない状況だ。鶴岡八幡宮の効力も、たいしたことはない。まあ、中東は遠いから無理としても、アジア圏ぐらいは フォローしてもいいだろう!?
まぁ、そんな効力のあまりない神様から「大凶」というレッテルを張られたところで、ぼくは決して動じたりはしない。だって、神様なんかいないんだから。ぼくはへっちゃらだ。
でも、買い物袋を壁にぶつけて卵が割れそうだったときや、車を運転していて歩道からいきなり自転車が飛び出したりした時、家内はぼくにこう言う。
「あぁ、大凶の男だから・・・」
おれは気にしてないんだよ!?周りが気にしすぎなだけさ。
というわけで、たまたまこんなブログをつくってるわけだから、もし、なんか大凶っぽいことがあったら、ここに掲載していこう。「大凶ブログ」ということで、本年もよろしくお願い致します。
繰り返しいうけど、ほんと、気にしてないんだから、大凶だろうが、大吉だろうが・・・。なんせ、仏教徒だしさ・・・。
毎年、鶴岡八幡宮に行くことになっている。気づいたら家内は数え年で前厄にあたるらしく、厄よけもお願いした。
成人の日なのか、かなりの人出だ。厄よけしてもらうのに2、30分は待っただろうか。
お参りも終り、破魔矢を買い、絵馬に「世界平和」と記入し、おみくじを引くことになった。
お みくじの窓口のおねいさんは流れ作業のように100円を受取り、おみくじを渡す。普通のお店と違うのは「ありがとうございました」ではなく、なんか、へん な愛想をついていた。「よいお参りでした」みたいな感じだった。ちょっと違和感があったが、さすがに「ありがとう」ではないらしい。
さて、ぼくの引いたおみくじ番号は、「40」番(んー、こういう情報をここに載せていいものかどうか)。
「大凶」
ぼくは、仏教徒である。さらに言うなら、家内との結婚式は、キリスト教だった。毎年初もうでは神社である。おそらく、死に直面したら、「おかぁちゃーん」 と言ってしまうかもしれない。決して「Oh! My God」、「Jesus!!」なんて出てこないし、「神様」や「仏様」なんて単語も出てこないだろう。
ぼくにとっての宗教観なんてのは、そんなものだ。「運」ってのはあるとおもうが、「神」は信じていない。「おばけ」は信じないが、「宇宙人」は信じている。 だから、おみくじの内容がどうかなんて、ぼくには大した問題ではないのだ。
そういえば、去年の初もうでで、ちゃんと絵馬に「世界平和」と書いたはずなのに、去年は災害につぐ災害、あげくにイラクは終息しないし、イスラエルも緊張 しているまんまだ。北朝鮮だって予断を許さない状況だ。鶴岡八幡宮の効力も、たいしたことはない。まあ、中東は遠いから無理としても、アジア圏ぐらいは フォローしてもいいだろう!?
まぁ、そんな効力のあまりない神様から「大凶」というレッテルを張られたところで、ぼくは決して動じたりはしない。だって、神様なんかいないんだから。ぼくはへっちゃらだ。
でも、買い物袋を壁にぶつけて卵が割れそうだったときや、車を運転していて歩道からいきなり自転車が飛び出したりした時、家内はぼくにこう言う。
「あぁ、大凶の男だから・・・」
おれは気にしてないんだよ!?周りが気にしすぎなだけさ。
というわけで、たまたまこんなブログをつくってるわけだから、もし、なんか大凶っぽいことがあったら、ここに掲載していこう。「大凶ブログ」ということで、本年もよろしくお願い致します。
繰り返しいうけど、ほんと、気にしてないんだから、大凶だろうが、大吉だろうが・・・。なんせ、仏教徒だしさ・・・。
2005/01/01
あけましておめでとうございます
今年もよろしくお願いいたします。というわけで、とりあえず、今年の年賀状のタネ明かしを・・・。
今年は酉年です。酉っぽい動作といえば、鳳凰が翼を広げまさに飛立つ瞬間のポーズ。このポーズといえば、ウェストサイドストーリー。そこで、僕らは、ウェ ストサイドストーリーのDVDをレンタル。何度も問題のシーンを再生し、振付けの確認を行う。家内は自称バレエダンサーなので、爪先の向き、目線、指先の 緊張感などいろいろと注文をつけてくる。その後、ストレッチ運動。
そして撮影1日目に入った。撮影場所は、近所の公園。広場に三脚を構え、一人づつ撮影。一人平均15テイクくらい撮影。足の角度が悪いだとか、表情がダメ とか、軽やかじゃないとか(すいませんねぇ、重量級なもんで)、いい感じだと思っても、シャッターチャンスに恵まれなかったり・・・。意外だったのは、家 内も僕も、案外足が上がっていたことだった。予想では、角度90度にも満たないと思っていたのだが(それはそれで、パロディっぽくてよかったんだが)、実 際の映画のワンシーンよりも足が上がっていたくらいだ。んー、次転職するなら、ダンサーか?おれは。という感じで、人間パートは1日で終了。次は Jacquesだ。
撮影2日目。Jacquesの撮影だ。Jacquesも鳥のように羽ばたいてもらわないといけない。フリスビーを投げて、それに飛付くJacquesを撮 影した。フリスビーをキャッチする犬ってのは、とても華麗にジャンプするようなイメージがあるが、それを写真に収めると、案外不格好で、ガニマタっぽく、 コミカルだ。1時間近くフリスビーを投げ、Jacquesを撮影。50テイク以上撮影しただろう。フォルムはいいけど、表情がダメだったり、表情はいいけ ど、ブレていたり、なかなか動物を撮影するのは難しい。日も傾いてきて光量が足りなくなり、どんどんピンボケ映像が増えてくる。しょうがないので、顔パー ト、胴体パートで分けて素材とすることにした。
これで、映像素材がととのったので、あとは、GIMPを使ってフォトレタッチだ。人間を切抜き、犬を切抜き、犬の顔をハメ込み、ライティングと色味をいじ くり、なんとかできた。ここで問題発生。「今年は酉年だった!」 早速ネットでフリー素材の鶏を探すが、なかなか翼を広げている鶏が見つからない。鶏捜索開始から2日目、ネットでいろいろ検索をかける。海外のサイトも調 べるが、chickenで検索すると、鶏の丸焼きとかの鶏肉しかでない。cockで検索すると、いかがわしいのしか出ない。henで検索すると、検索対象 が腐るほど出てきて、うんざりだ。しかし、検索の苦労もあり、イギリスのページで鶏発見!!こいつを加工しよう。
そしてできあがったのが、この年賀状。さて、ウェストサイドストーリーのパロディって気づくのは何人いるだろうか?
しかし、ウェストサイドストーリーって初めて観たけど、ロミオとジュリエットの現代版ってうたっておきながら、ヒロインのマリア死なないし・・・。チコってやつがものすごい貧乏クジ引いてるし・・・。つっこみどころありすぎな映画だ。
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