2006/12/10

第2回 濃厚鶏鍋友の会

 さて、鍋の季節がやってまいりました。今年も、濃厚鶏鍋友の会開催の時期となりました。
タイトルが第2回となってるが、トピックス的に第1回はどうだったのかというと・・・。

自称グルマンの私は、満を持してきりたんぽを披露すべく、濃厚鶏鍋友の会を開催したわけですが、志半ばでぐでぐでに酔っ払ってしまい、御奉行様のいなくなったアナーキーな世界では、鍋が独り歩きしてしまうわけですよ。第1回出席者は、口をそろえてこう言うのです。

「昼に食べたまかないのチキンクリームスパゲティはまぁまぁうまかったけど、鍋は最悪だったね」
「まかないだけは、うまかった」

同じ轍を踏むわけにはいかないのだ。計画はたぶん申し分ないはずなのだ。きりたんぽにこだわるのがいけないのだ。濃厚な鶏ダシをふんだんに使った鍋ならば、まずいわけないのだ。
というわけで、仕込んだ鶏ガラスープは4リットル。4羽のニワトリの亡骸を使って、濃厚に仕上げました。まかないを含め、昨年のレベルを超越しなくてはいけない。いい意味で期待を裏切らねばいけないのだ。
「まぁ、みんなで騒げりゃ、味なんか二の次!」
という意識を払拭しなくてはいけない。

当日のメニューは、こんな感じ。
 昼飯 :根野菜ごろごろチキンカレー
 おやつ:ニューヨークタイプチーズケーキ(チーズ2割増)
 飲物 :水出しコーヒー3種類(ブラジル、コロンビア、トラジャ)
 晩飯 :濃厚鶏ダシ使用の鶏鍋

昼飯を食わずに集合したせっかちなやつらの胃袋をまず満たすためのカレーライスを作る。もちろん、濃厚鳥ダシを利用する。ちょっと、お腹が一杯になりました。
夜から合流する仲間に合わせて鍋の準備をするので、午後はちょっと時間が空いてしまう。その手持ち無沙汰な野郎どもの胃袋を満たすためのおやつに、チーズケーキを用意した。コーヒーも用意した。このコーヒーは、500ml出すのに6時間かかる。3種類を500mlづつ用意したのだが、そのために、2日前から抽出していた。そんな苦労も知らず、ごきゅごきゅ流していく奴らを見ると、耳許で「だばだ〜〜」と叫んでやりたくなる。

 さて、貴族たちが集うサロンのような鍋パーティを想定していたが、僕含め庶民どもの集まりなので、12人も集まってしまうと、うるさいことこの上ない。みんなで鍋の準備をしようって感じでわいわい始めるんだが・・・。
 白菜切っていると、案の定、包丁で指を切っちゃうやつ。鳥つくねを作っているやつは、生姜がない!とわめきちらす。まるで財布を忘れたサザエさん並にわめく。大根に隠し包丁入れるつもりがまっぷたつにしてしまうやつ。カレーとチーズケーキで既に満腹で「晩飯は軽くそばにでもしようぜ」とか言い出すやつ。みんなでやろうってあれほど言ったのに、働かないやつ。現場を指揮しきれていない奉行。塩を追加しようとすると、「俺は薄味が好みなんだ!」と奉行でもないくせに、鍋を自分色に染めたいやつ。
そんな集まりでも、とりあえず準備はちゃくちゃくと進むものだ。働き蟻の3割は働いていないというが、そういう縮図がここにもあった。

で、美味かったかって? 味覚ってのは、身長体重以上に個人差の表れるものだから、そんなことコメントできませんよ。昨年に引き続き、今年がダメでも、来年ももちろんやるんです。50年くらい続けると、きっと伝統文化っぽいものになっていくに違いない。ムーブメントってのは、こういうところからはじまるものだ。きっと、猿楽や田楽ってのも、最初はこんなんだったに違いない。

2006/11/15

確信犯的釣り師

伊吹文部科学相宛の自殺告知手紙について

 1通目の自殺告知の封書は、衝撃的であり、タイミング的にも、内容的にも、カツがれるには十分過ぎる内容だった。穿った見方をする評論家たちもいたが、政府や関係者や世論を啓発するための最高の一擲だ。
 人生を斜めからしか見たことのない僕が思うに、あの1発目は、絶対に「釣り」だ。もしあれが、政府ないし関係者が「ヤラセ」だったら、称賛に値するヤラセだ。

というのも・・・

 まずニュースやワイドショーでいじめ自殺問題が、最大の話題となっているこのタイミングで、文部科学相宛に、差出人不明の手紙が届く。自殺を予告する内容だ。そりゃもう国をあげて防止にとりかかるわけだ。半分消えかかった消印の「豊」だけを頼りに。
 さて、マスコミは大々的に取り上げて、「豊」のつく消印の手紙を書いたやつに、電波の力を使って、こうやって説き伏せる。

「思い留まるんだ。でも、差出人をちゃんと書いとけよ」

そういう政府やマスコミの動きを見て、世のいじめられっこたちは、どう思うだろう?
「とりあえず、死ぬにしても、手紙出してからでもいいかな」
「豊の消印の人の思ってることわかる。実は、わたしも・・・」

 そして、自殺予告手紙は、ちゃんと差出人の名前が書かれた状態で、続々と届くことになる。
手紙だけではなく、テレフォン相談窓口なんかにもガンガンかかってくる。一連の事件をきっかけに、相談窓口のPRも増えたことだし。自殺予告に留まらず、いじめられている実態をつづって助けを求める手紙まで届くことだろう。
 というわけで、あの「豊の消印の人」のおかげで、相談窓口はパンク状態、自殺予告や助けて手紙も山のように届くようになったわけだ。

 もはや、あの「豊の消印の人」が、釣りであろうが、やらせであろうが、捏造であろうが、愉快犯であろうが、そんなことは、もはや関係ない。あの手紙によって、世のいじめられっこの救済窓口の門戸が開いたのだから、効果は絶大であったと、称賛する以外ないだろう。

 プロジェクト名をつけるのであれば、「鮎の友釣作戦」とでも言おうか。

「豊の消印の人」、GJ!

2006/11/10

Shall we Dance?

 デアゴスティーニという出版社は、とても人間の心のすき間を突くのが上手い会社だ。

思わず第1巻を買ってしまったために、クラシック・コレクションを全巻揃えてしまった。隔週で2000円弱という金額も無理がないあたりが、絶妙すぎる。
その半分眠りかけていたクラシック・コレクションが陽の目を見るときがやってきた。娘の情操教育にばっちりではないか。とくに寝つけの悪い娘には調度いいだろう。

「娘を眠らせるには、小夜曲がいいに違いない」と思い、モーツァルトをかけてみたりもしたが、効果はまったくなかった。ナハトムジークは、全然夜に似合わない。

とりあえず、片っ端からクラシックコレクションをかけてみる。まずは、キャッチーでなくてはいけない。娘が注意して聴いてるっぽいやつを厳選した結果、ヨハン・シュトラウス2世がいいらしい。親父の方の1世ではダメらしい。しかも、穏やかな曲なんかではなく、思いっきりワルツってるやつが特にお気に入りだ。
 
 娘を抱きかかえながら、「春の声」と「皇帝円舞曲」をかける。娘を抱えている腕が、小さくワルツを刻んでしまうのだが、その動きが彼女の眠りを誘うらしい。「美しく青きドナウ」のあたりで、眠りに落ちてしまう。それまで、僕は彼女とワルツを踊らなくてはいけない。

 たぶん明日も、時計の針が夜の10時を回るころ、彼女とワルツを踊るのさ。彼女が眠りにつくまで。

2006/10/30

I'm in the minority - Rush(2)

ーーー エキセントリック、マイノリティと言われること、別に嫌いじゃないですよ。


Ayn Randとの出会い。

 一個人の持っている情報網なんてのは、たかだか知れていて、いくらネットワークが発達した現代とはいえ、ある一定範囲以上にひろがることはまずない。個人内で形成され派生された情報なんてのは、所詮数珠つなぎになっ
ていて、なんらかの関連性があるのだ。Rushから「ツァラトゥストラはかく語りき」にたどり着くことはあっても、リムスキー・コルサコフなんかには、到底行き着かない。

 さて、チャプターのAyn Randという存在だが、ユダヤ系アメリカ人の作家である。アメリカではかなり有名な人らしくて、聖書の次に「人生で影響を受けた本」の「肩をすくめるアトラス」という作品を残した人である。米国文学なんてヘミグウェーくらいしか知らないのだが、そのヘミングウェ
ー以上に影響力のある作家らしい。アメリカでは。

 では、なんでタイトルが「RUSH(2)」となっているのか。
彼女の(おっと、Ayn Randは女性です)作品の「Anthem」が、微妙にRushとクロスオーバーするのです。(この「Anthem」という作品は、残念ながら、日本語訳本は出ていません、あしからず。がんばって英語勉強しようね)
 今回のアルバム「2112」を紹介するにあたってまず、Ayn Randを紹介しなくてはいけないのです。

 ざっくりいきますと、Anthemのあらすじっていうのが、こんな感じ
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遠くない未来、現在の文明が亡び、僕達の子孫は、ものす
ごい全体主義で、個人の自由なんてまったくない社会で生
きているのです。そんな中で唯一人、主人公がその閉塞性
に違和感を感じ、自由な意志、行動を起こそうとするのだ
けども、なんせ相手は、超全体主義な「協議会」の連中な
もんだから、異端扱いで処刑されそうになって、森の奥へ
と逃げていき、究極の発見をするのです。
 なによりもこの小説のおもしろいところが、究極的全体
主義の描写です。まず名前がない。「平等7-2521号」とい
うのが主人公を表現する記号です。さらに就職活動もなく
「天職委員会」ってところが仕事を割り当てる。結婚とい
うものものなくて、年に一度、割り当てられた人と性交を
行う。だから、ほぼ、みんな同じ誕生日(笑)。一日の行動
は、決まっていて、みんな同じ行動をする。さらに、個人
という概念がないため、「我々」「あなたたち」「彼ら」
という、○人称複数の概念しかない。だから、この小説は、
主人公、「平等7-2521号」の行動、言動すらも、「我々は
こう考えた」「我々は廊下を歩いていった」などと、ちょ
っと違和感のある言い回しになっています。
 まぁ、そんな社会の中で、主人公は、「我々は我々の思
いどおりに生きる」ことの清清しさを覚え、「我々の惚れ
た女性」と恋に落ちたりして、物語は進んで行くのだが-------
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とまぁ、推理小説の犯人を言ってしまうようで、読んでみたいかな、と思った人に悪いので、これ以上は書きませんが、とにかく、すばらしい発見をするのです。


さて、話をRushに戻しまして、「2112」です。知人が、どっかで、究極のロックオペラについてお話を展開中だが、僕の中での究極のロックオペラは、「2112」以外ありえないのである。まぁ、西遊記のゴダイゴもありだけどね。なんせ、組曲ですよ、組曲。
 で、この曲のストーリーですが、Ayn Randの「Anthem」に影響を受けているらしくて、いい感じで似ているのです。

2112年、レッドスター太陽系連合の中枢「シリンクス寺院」
が中央集権的な宗教国家として仕切っていて、自由のまった
くない主人公が、前時代の遺跡から、ギターを発見して、
「自由に音楽を奏でることが出来る装置」を司祭に披露した
ところ、異端児扱いされてしまい、洞窟に逃げ隠れ未だ見ぬ
自由な世界へ夢を抱きつつ果ててしまう。

というストーリーです。

 どちらも、「何か」を発見するんだけども、はじかれ、認められず、支配階級の言う楽園から追い出されてしまうのだが、さて、楽園はどっちなのだろうか?

 まるでユートピア的共産主義の真っ只中に居ながら、外側からユートピアを観察できた主人公故の違和感ってのが感じられます。
 そして、僕等はいま、外側にいるんだけども、なんか、いま半島がああいう状況だから、ものすごく、このお話を書いているってのにリアリズムを感じてしまうのです。それ故に、Ayn Rand、2112はタイムリーな作品です。

2006/10/07

I'm in the minority - Rush(1)

普通に楽曲のレビューしてもいいんだけど、そんなレビューはくさるほどあるだろうから、そっちにまかせるとして、「このCDで僕はこう変化した」的な話だと、ちょっと楽しめるかなとか思います。


ーーー エキセントリック、マイノリティと言われること、別に嫌いじゃないですよ。


Rushとの出会い。

 僕は、貧乏だった。どれくらい貧乏かというと、2ヶ月のお小遣いを集めて、CD1枚買うのがやっと、という高校生活を送っていた。だから、購入するCDを選ぶ時には、それはもう必死だった。
 当時は、MTV、ベストヒットUSA、FMステーションからの情報しかなく(あ、ピーター・バラカンのスーパーポップTVなんて渋い選曲していた番組もあったなあ)、学校の友達との会話では、ビルボードのランキングだとか、DURAN DURANだとか、Wham!だとか、とにかく、ヒットチャートの話題で溢れていた。というか、それしかなかった。
 やはり、クラスの友人と話を合わせるべく、というか、選択肢がそれしかないのだから、僕もヒットチャートをよく聞くミーハーな好みだった。(今となっては、時々KajaGooGooを聞いたりもするのだが、なかなかいい曲だねぇ、TooShyは)
Till Tuesdayを知っているだろうか?女性ボーカルのエイミー・マン率いるバンドだが、このアーティストのデビュー曲「Voices Carry」にやられてしまった。彼女の声に惚れてしまった。そもそも女性ボーカルっちゅうのは、もっと幼いころに、兄の影響で、BlondieやKim CarnsやFleetwood Macなんかを聞いていて、ちょっとハスキー系なのが好みだったのだが、彼女の澄んだ声にやられてしまった。
 しかし、いかんせん僕は貧乏だった。だから、Til Tuesdayのアルバムは買えなかった。しかも、この曲は売れ線ではなかった。この頃の女性ボーカルの決定版は「Bungles」しかありえなかったのだ。だから、Til Tuesdayは、スルーした。
 法律的にやばい話になるが、当時は、クラスメートで購入したCDをみんなでダビングして楽しんでいた。僕個人の判断基準というよりは、クラスメートの動向も視野に入れた上での選択となるのだ。BunglesはOKだが、Til Tuesdayはバツなのだ。Bunglesは友達が持っていたので、確か僕はこの時の選択で、「Heart」を選択した。それはそれで後悔はしていないのだが、今、聞き返すことはないアルバムのひとつだ。

 そんな状況の中で、僕に最高のチャンスが訪れた。「修学旅行」である。この行事は、親の財布が緩む。
「おみやげ代とか、いろいろお金かかるだろうから、餞別をあげよう」
貰ったお小遣いは、確か三万円。CDが10枚買える。みんなが新京極で八つ橋だのおみやげを買っている横でレコード屋に行き、CDを買い漁った。その中の1枚が、このカナダのトリオバンド「RUSH」の「Hold Your Fire」である。

 さて、なんでこのマイナーなバンド「RUSH」を買うに至ったか。シングルカット1曲目の「Time Stand Still」のコーラスに、エイミー・マンが参加しているからである。
 RUSHのことは、中学時代に「Power Windows」がリリースされていたのは知っていたし、「Big Money」っていうなにやら、シンセがぱきぱき鳴っているような曲だなぁ、っていう程度で知っていた。心の琴線に触れるような楽曲ではなかった。

 さて、修学旅行の帰りのバスの中だが、ポータブルCDなんてものは持っていないので、ひたすらライナーノーツと歌詞を読みまくった。友人が大富豪やってる横で、ひたすら歌詞を読んでいた。だって、曲が聞けないんだもの。

 原文と訳詞を見比べながら読み進めると、僕の目からは、みるみる鱗が落ちまくった。 
「なんなんだ。この歌詞は。ロックの歌詞じゃねぇ」
 そう、僕は、気づいてしまった。このバンドは、安易なラブソングは謳わない。ストーリーテラーでもない。メッセージソングほど厚かましくない。これは、哲学だ。これは、道標だ。

「事態に直面したとき、どのように考え、行動すべきか」

たぶん、僕は悲観論者であった。しかし、あっけらかんと楽観的に振る舞う術を人間関係の中に構築していた。

日本で「エゴ」というと、「わがままを押し通す」的な、どうもネガティブな印象しかあたえないと思う。「エゴ=自我」という本来の意味でいくと、自分が自分であるべき主義主張をしっかりと持って生きていく、そういうこ
とがとても重要なのではないかと思う。生きている意味であったり、存在意義、行動に至るモチベーションというものが、自分の心の中の根底にしっかりと存在していれば、人生ってのは、なんて素敵なものなのだろう、と思えてくるはずだ。

 初めて買ったRUSHのCD。僕は歌詞を先に読んだ。もしこれが楽曲を聴くことから始めたら、きっと気づかなかっただろう。
 この経験から、僕はまず歌詞を読む。それから曲を聴き始める。RUSHに限らず、そうすることにしている。

「RUSHは歌詞がいい」

さて、次の新譜は、いったいどんな世界を見せてくれるのだろうか、とても楽しみだ。

2006/09/13

松風号 発進!




  外気浴ということもこれから考えていかなくてはいけないらしい。なによりも、我が家には、Jacquesという犬もいるので、毎日の散歩は欠かせない。 Jacquesとの散歩は2時間たっぷり行っている。これが娘のために1時間に削減なんかしちゃったら、Jacquesのストレスは頂点に達し、新参者の 娘を攻撃しかねない。
 Jacquesとはよく海へ散歩へ出かける。砂浜っていうのは、車輪のついた乗物にはなかなか酷な環境で、とくにタイヤサ イズの小さい乳母車には蟻地獄のような環境に違いない。乳母車のチョイスひとつとっても、親というものは考えを巡らさずにはいられないのだ。砂浜を快適に 走行することが可能で、Jacquesのスピードにも対応でき、娘への振動を最小限に抑え、娘が眠っていても煩わしくないレベルのロードノイズである。以 上の条件を満たす乳母車を探していた。というわけで、写真の乳母車の購入に至ったのだ。
 「Air Buggy」社の「Air Buggy Bits Second Edition」である。この乳母車は、ハンドル位置が高く、手前に設定されており、歩くとき、及びジョギングするときに足を前に振り出しても乳母車には 届かない。さらに適度な高さのハンドルのため、この乳母車を押していると、なぜかジョギングせずにはいられない姿勢になってしまう。ああ、こんなに娘との 散歩が楽しいものだなんて、まるでJacquesを初めて散歩に連れ出したときのような感動だ。あくまで娘との散歩であって、乳母車との散歩ではないです よ。
 さて、こんなに素敵な育児ギアに巡りあえたので、この乳母車に名前をつけることにした。僕の住んでいる茅ヶ崎という場所は、海岸線に松林が 茂っている。この松林の中に遊歩道があり、夏の陽射しが強いときなんかは、この松林の中の遊歩道を歩くと、とても気持ちのいい風が吹いているのだ。
 そう、この乳母車は、まるで松林を吹き抜ける一陣の風のようだ。というわけで、「松風号」と名付けることにした。
 家内は、乳母車なんてレンタルで十分、と言っていたが、愛する娘のために、いろいろ考えた上での選択だったのだよ。決して単純に「かっこいいから」で選んだわけじゃないのだよ。

2006/08/07

Merry Go Round

メリーを作った。
メリーというのは、寝ている赤ちゃんの上でぐるぐる回っているシャンデリアみたいなやつだ。
どうやら赤んぼっていうのは、動いていて、色とりどりなものに目がいくらしい。
さ て、このメリー、購入したとしても4、5千円で買えるのだが、こういうものは、買ってしまうとその後の処理に困ってしまうのだ。弟なり妹を作る計画があれ ば、お下がりとして利用可能であるし、無駄にもならないのだが、生憎そんな計画はないので、どうしたものかと考えてしまう。
いやいや、この4、5 千円をけちってるわけではないのだよ。そりゃ愛する娘のためであれば、自分のお小遣いをはたいてまでも素敵なものを買ってあげようとは思うのだが、世には びこる自称親バカの「なんでも買ってあげよう」というスタンスには、賛同しかねる部分もあり、「金で解決できることを、あえて金を使わずに労力を使ってク リアしていこう」という「クラフトマンシップ」ってのを、愛娘に叩き込むのも一興ではないだろうか。というわけで、愛する娘のための作品第一号が、今回作 成したメリーである。
大人の僕が察するに、メリーという代物は、以下のポイントさえ抑えていれば、娘に受け入れてもらえるものだと考えた。

1.くるくるまわる。
2.何かがぶら下がっている。
3.カラフルである。

ど うせ物体の形状を認識する能力は、生後間もない娘にはまだ発達していないはずなので、お花だとか、くまさんだとかがぶら下がっている必要はないのだ。色は 認識できるっぽいので、とにかくカラフルにすれば問題はないだろう。以上の観点から、ぶら下げるものは「折紙で作った紙風船」となった。そのうち形状認識 能力が発達してきたら、折鶴にでもしてやろう。
くるくるまわるシステムをどうするかがポイントだ。モーターががらくた箱の中のどっかに入っていた が、回転数を調整するためのギアボックスや、電力供給の問題だの、どんどん大がかりになるので、ここはあえて、風力を利用する方法にした。風車をくっつけ ときゃ、エアコンの風で適当にまわるだろう。
あとは、ワイヤー製のハンガーをぐにぐに曲げてアームを作って、娘の頭の上に枝垂れさせりゃ完成である。

さ て、5千円をけちって作ったメリーであるが、娘の反応は、というと、いまいち気に入ってるのか、邪魔そうなのか、よくわからない。僕の予想では、キャッ キャ言いながらゆらゆら揺れる折紙の紙風船を手で掴んだりするのかと思っていたのだが、メリー以前と反応はとくに変わらない。メリーが勢いよく回っていて も、グズるときはグズるし。ここで大いなる疑問にぶつかるのであった。

「さて、メリーにはいったいどのような効果があるのだろうか」

自作第一号がみすぼらしかったのかなぁ?

2006/06/24

Welcome to the real world

ようこそ、この世界へ。
この世に生まれたからには、生きていかなくてはいけないのだが、
さて、なんで生きて「いかなくては」いけないのだろうか。
僕は貴女にうまく教えることが出来るだろうか。
貴女がそのうち教科書で習うようなことや、集団生活で構築する
人間関係や、モラルやポリシーなんかを、いろいろ教えたり、話
し合ったりることは出来るだろうが、なぜ生きていかなくてはい
けないかを、教えることは難しいなぁ。
だから、喜びや楽しさであるとか、待ち遠しいなにかとかがあれ
ば、きっと貴女も生きていくことが素敵なことだと思ってくれる
に違いない。
僕は、貴女を、教育し、導き、支えていかなくてはいけない。そ
ういう覚悟を、今日、抱いた。きっと、これが父親としての自覚
というやつなのだろう。

親愛なる我が娘「冴子」へ

2006/06/05

Can't fall asleep to a lullaby

爪楊枝で刺したら、きっとプチュンと中身が出てくるに違いない。
それほどまでに、家内のお腹はぱんぱんになっている。家内の名誉のためにも、最低限の弁明はしておかなくてはいけないが、肥満の話ではありません。

というわけで、子供が出来た。医者の言うことには、家内のお腹に寄生しつつ、すくすく育っているらしい。腹から出ているチューブ状のもので家内の養分を吸っているのだ。
家内のお腹を見ながら、それこそ、日毎に大きくなっていく様を見ながら、哺乳類の神秘を感じたことに加え、哺乳類のめんどくささを感じた。しかしながら一向に、父親としての自覚だの、覚悟だの、そういうものは一切感じない。
家 内の前では、なんとなく、気遣いを見せたりしながら、お腹をなでながら、「パパでちゅよー」なんてやっているが、自分でもどう接していいのかが、まだわか らない。「おいおい、あと1週間くらいで出てくんだぞ」それまでになんとか父親らしさを見付けなくてはいけない。新米祖父母の4人に、新米パパのだらしな さを指摘されるのは甚だ遺憾ではあるが、そういうことの繰り返しで、歴史は継ってきているのだから、まあ、なんとかなるだろう。
そうは言っても、たぶん、僕はマナティよりも上手くダッコはできるだろうし、カバよりもましな食生活を提供できるだろうし、ライオンよりもマシな躾けはできると思う。
  名前も考えなくてはいけないし、裕福といえるほど余裕もないので「ウチはウチ、他所は他所!」という躾けの要を加えた家訓十ヶ条の見直しも考えなくてはい けない。いろいろ考えなくてはいけないのだなぁ、とぼんやり構えていると、どんどん、家内のお腹はでかくなっていく。子供に締切を迫られている気分だ。
 おまえの成長ほど、お父さんの処理能力は速くないのだよ。

2006/01/16

あけましておめでとう


 今年もよろしくお願いいたします。
さて、今年はこんな感じの年賀状になったわけですが、やっぱり、去年の作品を凌駕できるアイデアがでてきませんでした。ほんと、絞り出したんですけど、なかなかしぼりきれなかった。
家庭内コンペでもボツばかりです。

俺:「犬っぽい格好って、やっぱ四つんばいだよな?」
俺:「俺の上におまえが乗って、その上にJacquesが乗って、人間ピラミッドっぽくして、「我が家のヒエラルキー」ってのはどうよ?」
妻:「四つんばいってあたりは、なんか、卑屈っぽいよね、正月から」
俺:「じゃあ、月に吠えるってな感じはどうよ?」
妻:「正月から、月で夜ってのも違うよねえ?」
俺:「他に犬ってイメージが、なかなかでねえなあ?」
妻:「颯爽と走る感じとかは?」
俺:「そんまま走ってるところも味がないからなあ」
俺:「Jacquesをバイクっぽく編集して、それに俺らが乗ってるってのどう?スピード感だして」
妻:「Jacquesに乗るだなんて、ありえない!」

と いうわけで、結局、アイデアがまとまらず、安直な方向へいってしまいました。決してウケを狙おうとか、そういうことを考えているわけでもないのですが、何 かしないといけないんじゃないだろうか?と思ってしまうあたりが、よくないのかもしれないなぁ、というわけで、シンプルながらも、戌年をフィーチャーした 作品にしたつもりでございます。

言い訳:いやいや、それでも、フローリングに文字書くのは、どうなのよ?